ありのままの自分を受け入れるって?
それが出来ないから生きづらいんです。
どうしたら、ありのままの自分を受け入れることができますか?
「ありのままの自分で生きよう」とか、「自己肯定感を高めるには、ありのままの自分を受け入れよう」と言われます。
言葉で聞くと、「そうか」と納得感はありますが、実際どうしたらいいの?という人も多いんじゃないでしょうか。
ありのままの自分を受け入れるには、事実をそのまま受け取り、判断しないことが重要です。
判断することで情報が歪む
僕たちはつい、「あいつは頭がいい」とか、「あいつの方が収入が高い」とか他人に対しても判断しがちです。
これは脳の特性上、生きていく上で仕方のない事なんです。
狩猟民族でも農耕民族でも、「あっちにいた方が土がいい」とか「あっちの山の方がイノシシやシカがいっぱいいる」という判断力がないと、歴史上のどこかで人類は滅びていたことでしょう。
火災や地震などの災害でも、「あっちに逃げた方が安全だ」と判断しなければいけませんし、ここに留まるべきか今すぐ逃げるべきかも判断しないといけませんよね?
だから判断することそのものが良い悪いということではありません。
判断しなければいけない時はあります。
しかし、「あいつの方がイケメンだ」とか「あいつの方が収入が高い」と判断した瞬間、そこには優劣が生まれます。
誰かと比べて劣っていると感じると劣等感を感じます。
優れていれば、劣等感を感じないからいいかと言えば、そういうわけでもありません。
顔も収入も身長も手先の器用さも気遣いも、全てに優れている人はいませんから、人と比べている限り、どこかで負けを認めざるを得ません。
それに、自分の方が優れているのだと人を見下す原因にもなります。
人を見下していたり、不平不満や愚痴を他人に向けていると、自分ももしかしてそう思われているんじゃないかという被害妄想にも繋がります。
20代男性身長165cm80kgという情報があったとします。
165cmは165cmでしかありません。
80kgは、対象が男性だろうが鉄だろうが発泡スチロールだろうが80kgです。
しかし、「20代男性身長165cm80kg」という情報を与えると、背が低いとか太いとかという判断をしてしまいませんか?
それは他人に向けても自分に向けても一緒です。
善悪、優劣など判断することで165cmが低い、80kgがデブという情報に歪められるんです。
内向的で人見知りという情報でしかないのに、内向的で人見知りな自分はダメだと思ってしまう。
自分は覚えるのに時間がかかるという情報を、自分は人に比べて覚えが悪いという情報に歪めてしまう。
人は知らない間に情報をそのまま受け止めず、各々で歪めてしまっているのです。
事実を事実としてありのまま受け入れるには?
まずは、判断しているという事実を自覚することです。
その上で、「でも、こんないい面があるよな」という側面に焦点を当ててみるんです。
物事には二面性、多面性があります。
いろんな見方が存在します。
ある人には散財しているように見えても、ある人には気前がいい人に見えることもあります。
あなたにはキツそうに思えても、友達は楽しんでいたりします。
僕から見れば、一日中会社の中にいる事務仕事はキツそうに見えますが、「外歩き回る方がキツイでしょ!」って言う人や、「エアコンついてるから快適じゃん!」という人もいます。
会話の受け答えが早い人は、頭の回転が早いとかコミュ力が高いという良い評価を受けることがあります。
それでは、受け答えが遅い人は悪いのでしょうか?
そんなことはありません。
受け答えが遅いということは、自分の頭でじっくりと考えて答えを出したり、いらない一言を言わないという長所があるのです。
受け答えに時間が必要という事実は事実として受け入れて、その特性の長所に目を向けたり、受け答えには時間が必要だから「○○君はどう思う?」と相手に喋らせているうちに考えるなどの工夫をすればいいのです。
受け答えに時間が必要という事実は事実として受け入れ、「それを踏まえてどうするか?」を考える方が現実的です。
ありのままの自分を受け入れるために、老子の考えが参考になります。
この世界にはもともと、善悪も優劣もない。
この世界においては何事も、ただ、そこにある。
そこには、美醜も善悪もない。
あなたが、美しいものを「美しい」と思うことで、「醜い」が生じる。
あなたが、善いものを「善い」と思い込むことで、「善くない」が生じる。
それらは、あなた自身が、作り出しているに過ぎない。
有を「有」とするから、無が「無」となるのであり、有無は共に生じる。
難を「難」とするから、易が「易」となるのであり、難易は共に成る。
長を「長」とするから、短が「短」となるのであり、長短は共につくられる。
高を「高」とするから、下が「下」となるのであり、高下はそこにある。
音楽を「音楽」とするから、雑音が「雑音」となるのであり、両者は調和する。
先を「先」とするから、後が「後」になるのであり、前後は付き従っている。
これらは常にそうである。
優れた人や、劣った人がいるのではない。
豊かな人や、貧しい人がいるのではない。
誰かを「優れている」と思うから、誰かが「劣っている」ということになり、
誰かを「豊か」だと思うから、誰かが「貧しい」」ということになる。
それは、あなた自身が、作り出しているに過ぎない。
引用:Tao 老子の教え あるがままに生きる
まとめ
ありのままの自分を受け入れるには、善悪の判断をしないことが重要だとお伝えしてきました。
物事もグラデーションです。
どちらか白黒はっきり決められるものの方が少ないです。
戦争でさえ、攻撃する側には攻撃する側の正義があります。
デール・カーネギーというおじさん(?)も『人を動かす』という本の中で、「盗人にも五分の理を認めよ」と言っています。
盗人にも「経済的に苦しかった」という、盗人なりの5%の言い訳があるものです。
自分の行いや性格を良い悪いと判断を下すのではなく、そういう特性を持った自分と認められるようになると、今より幾分楽に生きられるようになると思いますよ。
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